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今年は長めに帰省ということで、12日から18日まで加古川。短いと子連れ移動だけで疲れるので
帰省のいいところは、孫の面倒を大変積極的にみてくれるばば&じじの力を大いに借り、親はふらりと二人で出掛けたり、一人一人で出掛けられたりするところです?
13日は阪急西宮ガーデンズ(関西最大級のショッピングモールなんですって!)で誕生日近いため夫になんか買ってもらおうとぶらぶら。といっても最近ブランドものは特に欲しくないため、目的なくショッピング開始。
でもあるんですよねー、欲しいものってやっぱり!お買い物大好きだった自分が少し戻ってきました(笑)
といっても全て必要なものばかり!エーグルのリュックと、エプロンと靴下買ってもらいました


こちら、通勤ラン用です。現在全く1ミリも走ってないのですが、どうやら2月の某大会に出られそうです。せめて完走できるレベルまでは練習しないとなのですが、練習時間の捻出には通勤ランしか思いつかない私。(前もそうだったけど
)でも独身時代と違い、いまは急に熱出すリスクが高い子供が二人いるため、リスク回避のために毎日会社PCを持って帰っています。PCさえあれば子供が熱出して最悪家にいても、子供が寝てる間は仕事出来ます(社内業務限定ですが)なので、通勤ラン=PCを背負えるリュックが必要となり、なかなかそういった需要がないらしく(それもそうか)、小振りのトレラン用でPC収納できる背面パッドが入ったポケット付きタイプってないんですよね。

しかも、小振りというのがポイント。大きいとPCが揺れてPCケースなどに入れないといけない→面倒くさがりな私には向かないのです。
阪急百貨店内のエーグル販売スタッフのお兄さんが使っていた会社PCがHPで、私のPCと多分サイズは同じ。それ入れてみていいですか……っと厚かましくも聞いてみてOKだったので、サイズ確認もでき、ピッタリサイズでこれしかない!と思い、プレゼントに買ってもらいましたー。元バッグのバイヤーとしてアマゾンで買わなくてよかったのか、恐る恐る確認してみると、どうやらエーグルあ
まり売れてないらしく、購入したものは品揃えにありませんでしたあと実際もの入れて背負ってみるの、こういう用途の場合には大事ですよねー。まぁ、アマゾンで買っても家でいれてみてだめだったら返品すればいいだけの話ですが。
リュックまで買ったのだから走らないとー!八割のランニングウェアを捨ててしまったので、ウェアもあまりないです。GARMINも動くか怪しい。アシックスのランニングシューズはアマゾンでちゃんと買おうっと
週三回走ったらサブフォーは狙えるんだろうか、、、週四回走ってて初フルで3時間45分切れたから、寒ければいける!?誰か教えてくださーぃ走っていた頃から三年以上も経って、二度の出産と共に色々忘れてしまいました(笑)








回避にうるさいあなたに



本日はの寄稿コラムをお送り致します!ナショナリズムと保守思想について、色々と考えさせられる素晴らしいコラムとなっており\xA4
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『愛国と信仰の構造』〜ソウルメイト様
政治学や歴史の研究者であられる中島岳志さんは、「リベラル保守宣言」という著作の中で、保守思想に傾倒しておられることを自認し、公言しておられますが、現日本国総理大臣の安倍晋三氏やそれに連なる人たち、および、橋下徹氏などにたいして批判的であられることから、現代日本の保守思想家を自称する人たちの中でも異端の少数派と言っていいような方なのだろうと思います。そして、おそらく、現代日本においては、保守思想にかんする限り、中島さんのような《異端の少数派》こそが良質な保守思想家なんじゃなかろうかとも思ったりするのですが…。
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中島さんは、宗教学者島薗進さんとの対談本「愛国と信仰の構造」を刊行し、世に問うておられますが、同書のサブタイトルは、「全体主義はよみがえるのか」とあるように、中島さんの主たる関心事および中島さんが強く警戒し危惧するものは、日本と日本人の政治や社会、意識が全体主義化してしまうので\xA4
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中島さんは、明治維新から大東亜戦争勃発にいたるまでの期間に起きた出来事と、ポツダム宣言受諾による戦争終結から戦後の高度経済成長とバブルの発生と崩壊を経て現在進行しつつある事態との相似性を指摘して、現在の日本と日本人は全体主義になだれ込む寸前のかなりきわどいところにあるのではないか?との警鐘を鳴らしておられます。


中島さんは同書の中で、朝露が強い陽射しによって瞬時に蒸発してしまうかのように、大東亜戦争以前のいわゆる大正デモクラシーが熱狂的なナショナリズムの沸騰とそれが招来した全体主義の前にひとたまりもなく潰え去ってしまったことの背景に、愛国すなわち、ナショナリズムと信仰すなわち宗教との不幸な結合を指摘しておられます。

 
愛国すなわちナショナリズムも信仰すなわち宗教もそれが穏健で健全な社会的文脈におかれて、しかるべき位置にある限りは、取り立てて危険視すべきものではないと思います。そして、ナショナリズムや信仰のようなものが破壊的な力を発揮することがないようにナショナリズムや宗教および信仰というよ
うなものには負の側面、言ってみれば《毒性》が不可避的な備わっていて、それを弱め、弱毒化もしくは無毒化しているのは、それらが適切な社会的文脈に埋め込まれていることだ、中島さんは主張しておられますが、それは、防災などのために日本の国土を強靭化して、日本人の命と暮らしを守るべしと主張をされる京都大学教授であられる藤井聡さんがオルテガの「大衆の反逆」を引き合いに出しつつお書きなられた「大衆社会の処方箋」やナチズムの分析・批判で知られるハンナ・アーレントの考察を参照しつつお書きになられた「凡庸な悪魔」などの著作で、個人が国家というものと直接無媒介的に接続してしまうことの危うさを指摘し、国家というものも社会というものも、たくさんの中間団体が存在することで安定性を得ることができるとする考察と見事に符合しているように思います。


そして、ある種の宗教や信仰は、国家と個人を直結させる上で強力な触媒となりうるゆえに警戒を要すると中島さんや島薗さんは主張しておられます。


労組だとか建設業組合だとか、農協だとかといった各種の個人と国家の間にある中間団体・共同体、および\xA1
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中島さんは、ナショナリズムというものは、本来、「国民国家」を生み出す原動力になっものだ、と述べておられます。「国民国家」とは、「国民は平等であり、国家の主権者である」という考え方をベースにした国家形態である、と中島さんは述べておられます。また、それゆえ、ナショナリズムというものは、「国民の平等」と「国民の主権」を強く求めていく要素を強く持っている、とも述べておられます。そして、日本におけるナショナリズムの端的な顕れは、明治維新の精神的主柱となった「一君万民」思想にみることができる、と述べてもおられます。天皇の前では、あらゆる国民が平等で身分、出自による差はないとする思想こそが徳川将軍家を頂点とする封建的身分制を否定し
、武士という支配階級による幕藩体制を吹き飛ばしたのだ、とする中島さんは主張しておられます。

 
ところで、ナショナリズムというと、右派的な主張という印象を与えがちですが、中島さんは、元来、ナショナリズムという思想は、フランス革命にその起源を有するもので、左派的な出自を持つ思想である、と述べておられます。これは、結構意外で、「え?ほんまかいな?」とも思ったりもしますが、多分、間違いではないと思います。ですから、以前、ブログに書かせていただいた政治学者の萱野稔人さんの「ナショナリズムは悪なのか」という著作の中で、左派的な志向を持つ人たちがナショナリズムというだけでこれを蛇蝎のように忌み嫌うというのは、妥当な態度ではないとかなり厳しく批判しておられることを思うと、《ナショナリズム》という言葉や観念には幾重にも不要なイメージが付着していることだけは確かで、ものごとを深く洞察する眼力を持たない人たちをたやすく幻惑させてしまうのだろうと思います。


ちなみに、明治維新というのは、それまでの身分制度を一新するような変革ではありましたが、フランス革命のよう\xA4
奮很拭\xA6revolutionではなく、「回復」や「復興」を意味するrestorationであったのは、旧体制の一部を構成していた天皇制を破棄しなかったからだ、と中島さんは述べておられます。維新を主導した志士たちは、「革命」という概念を嫌ったんだそうです。自分たちがやろうとしているのは、あくまで王政の復興である、本来の日本の「国体」へと戻すことであって、「政体」は変えても「国体」は変えていない、だから、維新であって革命ではないということなんでしょうね。


中島さんは、下からの、つまり、庶民を含む社会階層の下部からのナショナリズムは、ある局面で社会階層の上層、支配階層に吸収され、上からのナショナリズム、すなわち「国民の国家」ではなく、「国家の国民」に転化してしまうことが往々にしてあることを指摘してもおられます。


明治維新によって成立した明治政府、明治の支配体制というのは、その政権幹部のほぼことごとくが下級武士階級の出身であったことを見ても、「一君万民」思想による下からのナショナリズムを原動力としたことは間違いないと思いますが、いったん政権を奪取して新たな政権\xA4
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しかし、下からのナショナリズムのうち支配体制に吸収され尽くされず、とり残されたものたちが武装蜂起して反乱を起こしたのが前原一誠を首謀者とする「萩の乱」や江藤新平を首謀者とする「佐賀の乱」で、西郷隆盛を首領として担いだ明治新政府体制に対するもっとも大きな反乱である「西南戦争」が武力鎮圧されてしまうと、これら支配体制に吸収されず疎外された下からのナショナリズムは、路線変更を余儀なくされ、そうした者たちによって担われたのが「自由民権運動」である、と中島さんは述べておられます。そして、この「下からのナショナリズム」である自由民権運動から、《玄洋社》のような伝統的右翼思想を担う人たちが生まれたのだそうです。


中島さんは右翼思想の中核に《すべてを天皇の大御心にお任せすれば世の中の政治はおのずとうまくいくというユートピア主義がある》
と指摘しておられます。また、長年の歴史の中に蓄積されてきた経験知や良識、伝統といった「人智を超えたもの」を重視する伝統的な右翼とは異なる《革新右翼》の多くが日蓮主義系の超国家主義者たちであり、彼らはまた、強烈な設計主義でもあって、革命やテロ、軍事的陰謀などによって、社会を根本的に改造し、「理想社会」を自分たちの手で作っていくことができるといった確信を強く抱くユートピア主義者でもあった、と書いておられます。


また、《天皇の大御心にお任せさえすれば》という考え方に、浄土宗や浄土真宗などの「はからい(人為的なもくろみ)を捨て、弥陀の本願にお任せする」という宗教的信念が融合することによって、超国家的な君臣一体の理想国家を実現できる、というユートピア思想を生み出した、と書いておられます。


中島さんや島薗さんの論考に付け加えるとすれば、日蓮主義も親鸞主義もその本質において、自説の絶対的優越性と他説に対する妥協のない硬直的で非融和的な態度、すなわち絶対主義的な思考パターンが際立っていて、それこそは、キリスト教イスラム教の原理主義に通底するものであり、また\xA1
△△蕕罎詁蛤枦Ľ弊嚩↗轡好謄爐篝嚩▷〼从兒彖曩.淵船坤爐任△譟▲好拭璽螢縫坤爐任△譟¬啾德貅腟舛任△譟▲櫂襦Ε櫂版匹任△譟△修靴董∉䡄椶砲Ľ韻襪ǂ弔討猟狭餡伴腟舛任△譟△△襪い蓮ヿ電鞠彪从儚悗篆係電鞠彪从儚悄△Ľ茲喊啓\xAB由主義のような市場原理至上主義であれ─に共通するものなのではないか?と思うわけであります。

さて、全体主義のようなものは、みんながある特定の理想を思い描いて、その理想が実現することを夢想することなしには、成り立ち得ないものだと思います。


中島さんは、ある種の人たちを心酔させ熱狂させる主要なもののひとつが理想主義である、と「愛国と信仰の構造」の中で述べておられます。


現実とはたいていごちゃごちゃした猥雑なもので、望ましいものばかりでなく、望ましくないものもたくさん存在しているわけですが、頭の中、観念の中でなら、いくらでも整然ときたすっきりと整理整頓された社会を思い描くことはできます。そして、そういうものに人間は強く惹きつけられる傾向をもっているように思います。その甘美な夢想にひたる快感こそが人をナチズムのようなファシズ
ムであれ、スターリンポル・ポトのような共産主義であれ、全体主義にほかならないものに強く引きつけるのだろうと思います。


保守思想は、人間は、そもそも完全無欠の全知全能の存在ではないので、理想を思い描いたとしても、けっしてそれが実現することはないと慎み深くも謙虚に考えるのだ、と中島さんは語っておられますが、理想主義者というのは、理想は実現可能であると考えるわけですから、保守思想の対局にあると言っていいと思います。


人生経験が乏しく人間の限界や弱点、人間の積み重ねた歴史などの知識が不十分な若者は、どうしても理想主義に強く惹かれる傾向があると思いますが、ある程度、人生経験を積み人間についての豊かな知識を持つようになった人なら、かりにその人が自分自身を保守的であるとは思わないとしても、マイケル・オークショットによる保守的であるとは

《見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あ\xA4
衢召襪發里茲蠅眤④蠅襪世韻里發里髻〴萎絜覆發里茲蠅盻妬擷覆發里髻⇒鎣朸燭砲Ľ韻觧衒,茲蠅盡什澆両个い髻ゟイ爐海箸任△襦F世襪箸海蹐⓰豼愨燭いǂ眞里譴覆ぐ♥陲陵僅任茲蠅癲"柄阿ǂ蕕隆愀犬篆侊舛亡陲鼎噶愀犬ⅴイ泙譴襦3容世軍板イ垢襪海箸蓮∧飮鈇薫蘋丨靴導擇靴澆鯑世襪海箸曚表斗廚任呂覆ぁ3弯契④簍㌦召気砲茲覿淑海茲蠅癲∩喙困砲茲詒畸欧諒鈇ⅱ埇擷任△襦J歇蘚Ľ任△襪箸蓮⊆ɔ覆里瓩阿蠅△錣擦紡个靴特検垢箸靴討い襪海函⊆ɔ覆凌箸冒蟇類靴囊犬④討い唎海箸任△蝓⊆\xAB分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。或る人々にとってはこうしたこと自体が選択の結果であるが、また或る人々にとっては、それは好き嫌いの中に多かれ少なかれ現れるその人の性向であって、それ自体が選択されたり特別に培われたりしたものではない》

という文章を味わい深いものとして読み、かつ賛同されるのではないかと思います。普通の人なら誰しも守りたいものはいろいろあるでしょう。そういう人であるなら、マイケル・オークショットの言葉は違和感なく受け入れられるのではないでしょうか?